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  志芸の会公演 ■第六回 新春を寿ぐ「翁」と「狂言」の会  
 
     
 
     
 
     
 
         
 
  再生の《翁》
 

 《翁》の主人公は演者ではない。あくまで面である。面そのものが御神体である。だから鏡の間では面は祭壇に祀られている。面箱持ちによって御神輿行列の先頭を進む。シテは舞台上で面をつけることにより神と化す。
 

 翁面(白式尉面)の眉は下がっている。笑い顔である。能面には《三笑》など除けば笑い顔はほとんどない。翁面が笑い顔(寿ぎ)を代表しているかのようである。一方、ツタンカーメンや大英博物館などミイラの面は同じく下がり眉毛である。縁起でもないと言うなかれ。そこに死はない。死は、そのまま神の存在=永遠の生なのである。高野山では空海は、まだ生きている。死=神に最も近い存在が老人=翁なのである。翁草という「万葉集」にも歌われた可憐な花がある。しかるに毒草である。手折って口にするなどは、めっそうもないことなのである。神聖・高位。私達は神の舞い姿に今年は幸多かれと祈る。翁になられるのは、第一回につとめられた高林白牛口二氏。美しい白髪に厳しい修練の後が伺える。今回のように「どうどうたらり」と濁音で謡われるのが本来。鼓も常とは違って三丁出る。三番三は忠亮氏。第一回目の忠重氏と比べられるのは必定。応援したくなる。
 

 狂言は酉年にちなんで《鶏聟》。鶏の鳴き声は江戸時代中頃の大蔵流虎寛本では「カウカウ、コキャッカウ」と記す。さて、どう初鳴きしてくれるのか。舅忠三郎氏の困り顔も見もの。謡いは蹴り足の連想で蹴鞠の場となる。
 

 《鬼の継子》もあまり出ない曲。武悪面をつけた鬼との出会いの場は和泉流では越中芦倉の里となる。蓬莱の島は一方で仙人の住む不老不死の島。節分を意識した幸せを運ぶ鬼なのかもしれない。
 

 ところで、お参りは、もう済まされてきましたか。今回は、うれしいことに湊川神社。観阿弥が楠木正成と関るかは別にして、入江美保の世阿弥像もある。今日一日はゆっくり能楽を語り、神社を見学して帰りましょう。
 
 
 
  文 関屋俊彦氏 (関西大学教授)  
 
 
 
   
         
   
 
 
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